私は明朝、元居た星へ帰ります。遠い、遠い星へ帰ります。





こうして地球で暮らしたのは長い一生の中でほんの僅かな時間となるのでしょう が、それでも、住み慣れたこの街で大切なものが沢山出来ました。素敵なものに 沢山出会いました。それは両手じゃ抱えきれないほどの宝物です。掛け替えのな いものです。

大好きな友達。先生。行き帰りにいつも話し掛けてくれるおばあさん。懐かれて いた近所の大きな飼い犬。よく寄り道した雑貨屋さん。通学路に咲く野の花畑。 放課後に皆で寄った駄菓子屋さん、夕暮れの公園にも足を運びました。
私は惜しみながらもそれらひとつひとつに最後の別れを告げました。如何して泣きたくなりましたが、さよならを告げる間、涙はずうっと堪えていました。
もう二度と出逢えないであろう満たされた日常の欠片を、瞼の裏に鮮明に焼き付けておきたかった からです。 寂しさに泣くのは後から幾らでも出来ます。だから泣きたくなったときにいつでも、この温かな宝物を思い出せるようにしておきたかったのです。



私が最後に向かったのは河川敷でした。いつも夕方になると、そこで居眠りしている やつがいるのです。 そいつとはなんというか、波長が合うというか。周りに迷惑 を掛けるほどの喧嘩もしょっちゅうしますが、次の日には互いにケロリと忘れて また二人でつるんでいる、そんな仲です。そいつの隣は不思議と居心地が良い のです。

そいつはいつもは眠りこけている癖に、今日に限っては川べり に座り込んでぼんやりとどこかを眺めていました。やがてこちらの姿に気付くと 、珍しく口端を上げて(にやり、という擬音が正しいのかもしれません)、右手を挙げ ました。

「・・・おまえ、明日帰るんだって?」

隣に腰を下ろした私が小さく頷くと、そうかィ、と呟く声が聞こえました。
わたしはこいつには、留学の終わりのことを告げてはいなかったので、多分人づ てにでも聞いたのでしょう。告げたくなくてわざと告げなかったのではなく、何故かこいつにだけはどうし ても告げられなかったのです。

「おまえが留学生だってこと、すっかり忘れてたなァ」

逆光で表情こそ解りませんでしたが、声の調子は何故か、かえって普段より明るいくらいでした。 しかしそのまましばらくの間、お互いちっとも口を利きません。
私ともう会えなくて寂しいだろ、とか、用意していた言葉は山ほどありました。 だけど陽光が雲に遮られ、改まってこいつの夕焼けに照らされた横顔を見た途端、急に喉が震えはじめて上手く声を出せなくなったのです。 言葉を声に紡ごうとすれば するほど、目の奥がじいんと熱くなってどうしようもなく胸が締め付けられる のです。私は下唇を噛んでなんとか堪えようとしていました。 しかしずっとそうしているうちに、ついに堪えきれず一筋の涙が零れると、そ れはぽろぽろと溢れ出し止まりませんでした。「私ともう会えなくて寂しいだろ 」なんて。こうして会えなくなることが一番寂しいのは他でもない私です。

だけど哀しいかな・私にはどうする手立てもないことなのです。

私が泣いていることに気付いたそいつは、一瞬、僅かに一瞬だけぎょっとした様 子を見せたようです(涙で視界が霞んでいたので定かではないですが)。そのあと、学生服の 袖で乱暴に目元を擦られました。痛いヨ。掠れる声をようやく絞り出すとそい つは、最後なんだから笑顔くらい見せろィ、と言ってそっぽを向いてしまいまし た。心なしかその目もほんの少しだけ潤んでいた気がします。不謹慎にもそれが あんまり可笑しくてつい吹き出して、明日は吹雪かもネ、と皮肉りつつも私はようやく笑って みせることが出来ました。
そしてきっといつもの通り、こいつも同じような厭味を言い返してくるのだろうと思っていたのです、が。降ってきたのはただただ穏やかな声と、安堵のような表情でした。

「・・・やっぱりアンタにはその方が似合ってらァ」

私は驚いて、思わず目を見開きました。こいつのそのような表情を見たことは今までに一度だってなかったからです。笑っていることさえ稀有で(なにか企んだような笑みは しばしば見ましたが)、いわゆるポーカーフェイスというか。感情の機微が解りづらく掴みどころの無い奴なのです。
私は暫くそのまま茫然としていましたが、気づけばこいつはいつもの調子に戻って、「帰るか」と大儀そうに立ち上がりました。
じゃあな。背を向けたまま右手をひらひらとさせて、そいつは言いました。じゃあネ。私は少し迷ってからそう返しました。

さよならは言いませんでした。

止まったはずの涙が堰を切ったようにまた頬を伝います。なんとなく、あいつがこちらへ振り返っているような気がしたのですが、私は後ろを振り返ることが出来ませんでし た。けれど滲む視界の中に何度も何度も現れるのは、あいつの姿なのです。さっきの安堵のような表情なのです。何度も何度も繰り返されるのは、さっきの穏やかな声なので す。如何して、寂しいのでもなく悲しいのでもなくただただ苦しくなりました。その訳に今頃になって気づいた自分の気持ちには悔しくて悔しくて堪らないのですが。それで も私は縋れるものをひとつだけ見出しました。

―――「さよなら」は言わないでおいて良かった、と。





最初最後の、



(20070221)








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