つんと鼻につく消毒液の匂いは、医務室独特のものだ。
医務室の女医を適当に口説いて拝借してきた鍵を使って、ひとり此処に居座ってから早数時間が経っていた。 大体外の仕事をこなして来たというのに授業に出るなんて七面倒で。 どうせもう春にはこの学園ともおさらばなんだし、その先もほぼ確定している自分にとってはそんなものは多分、何の意味も持たない。
ポケットから取り出した煙草を一本咥えると、同じくポケットに潜んでいるライターを探り出した。慣れた手つきで火を燈す。 煙草の匂いが医務室に染み付いてしまっては宜しくないのかもしれないけど、と心の中で呟きながら一息ついたところで、ガラリと扉が音を立てたのと同時に誰かの気配を感じた。







***純情
メランコリー






「センセー、顔面殴打したから氷欲しいんですけどー」

「先生なら今はいねーぜ、って―――何だ、翼じゃねーか」



開いた扉から姿を現したのは見慣れた人物だった。
翼は、「うわ、何で殿が此処にいるんだよ」と可愛くない声を上げながら、あからさまに嫌悪感を浮かべた顔で此方を見ている。 しかしそれもまあ何時もの事で。多少は敬意を払ってくれてもいいんじゃないの、と終始言ってはいるものの、そんな畏まった関係はやっぱり今更だ(今となって「殿内先輩!」なんて言われたものなら気色悪いことこの上ない)。



「んで、何だよ翼。サボリに来たの?」

「違うって。さっき言ったろ」



ああ、そう云えば此処にやって来るなり「顔面殴打した」とか言ってたっけなあ、とやや遠慮がちに彼の方へ近づく。 確かに痛々しく真っ赤に腫れた頬を注視すると、出来過ぎな程くっきりと紅葉形の痕跡が残っていた。



「なんつーかコレ、殴打したっつーか殴打されたって感じだな」

「・・・ご名答。ったくよー、幾らなんでもビンタは反則だっつのアイツ」



最後は小さな独り言のように聞こえた。何処と無く、瞳が揺れているのに気が 付いたが敢えて気付かない振りをする。踏み込んでいくのが必ずしも善いとは限らない。 だからわざとおどけた口調で、「なーにそれ?修羅場〜?」と一笑した。



「違っ・・・いや違うこともないような」

「おっと、そういう話なら俺に任せてくれて良いんだぜ?」











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「―――っつーことがあった訳」

「・・・はー、これだからムッツリ中坊は」



翼の話に呆れたようにそう言うと、2本目になる煙草を咥えた。大きく煙を吐き出すと、 手前で翼が不快そうに眉を顰めたが、構わずに次の言葉を続けた。



「ま、危ない橋も一度は渡れって言うしな。良かったな安心しろ、これも経験のうちだよ」

「何それ、励ましになってないんですけど」



「どうしろって言うんだよ」と嘆息を漏らすと、翼は視線を宙に投げたきり呆けている(もしかしたらコイツ、相当凹んでるのかもしれない)。
翼の話とはつまるところ―――酷く腫れた右頬に残っている紅葉形の跡からも解るのだが―――これが実のところ手形であるということ、つまり平手打ちを喰らわされた跡というわけで。 勿論彼は自分で自分の頬をビンタする、なんてマゾヒストでは無い(筈だ、コイツとの数年来の付き合いで知るうちは)故に、これは勿論他人の手形だ。
そして誰のものなのかと問われると、そう―――彼女の。
残念ながらその瞬間をこの目で見こそしなかったものの、唐突だった彼の行為に吃驚したあまり、思わず声より先に手が出てしまった彼女の姿は容易に想像出来てしまった。まあ元はと言えば翼に非があるんだから、仕方ないと言えば仕方ないけれど。逸ってしまう気持ちは解らないでもない気がして。だけど近すぎる距離にいる彼女が待っているのはそんな行為でも何でもない、きっとひとつの言葉だ。
苦笑いしたくなる口元を何とか抑えながら、短くなった煙草の先端を壁に擦り付けて火を消した。それから大儀そうに立ち上がると、のろのろとした動作で氷嚢を取り出し、柄にも無くぼんやりしている翼に向かって放り投げた。



「ちゃんと冷やしとけよ」

「何?殿が野郎の心配するなんてキモイんですけど」

「先輩に向かってキモイとは何様?」

「うるせーオッサン」

「まだ18の青年にオッサンとは何だクソガキ」



そのままがしりと首根っこを攫まれた翼は、平素なら力一杯蹴りなり肘鉄なりを食らわすものの、今回はさして抵抗もせずに小さく溜息をついた。

決して只じゃ済まないだろうと予想はしていたものの、あの手加減無しの平手打ちは思いのほか効いた。 勿論、叩かれた箇所はあまりに痛いのだけど、それだけじゃなくて何だかもう心身共に。 最早プライドもクソもあったもんじゃない。まあこれも全て、ひとえにあいつのせいなのだ。あいつが全部悪い! ・・・訳じゃないのは解っているのだが、そういうことにでもしておかないと何だかあまりに自分が不憫すぎて。 というかもはや惨めかも。今となってはあんな事を仕出かした自分が恨めしい。 それにこんなの、一体明日からどんな顔して会えば良いのか。



「あー・・・どうしろってんだよ」

「ったく普段は生意気な癖して、ホント恋愛はへタレなー」

「うっせー」

「言葉より行動で示せ、ってよく言うけどお前達の場合は逆なんだろうなあ」



なのに行動で示しちゃったんだからお前は、と殿は頭を抱えるような仕草をしたけれど、本当に頭を抱えたいのは此方に決まっている。
そういえば蜜柑にも同じようなことを言われたような気がする。距離が近ければ近いほど言葉というのはより強い意味を持ってくるのは事実だ。そして幾ら近くにいても、肝心なところが繋がっていない関係に耐えられなくなったのは自分だ。彼女がずっと待っていたのは知っていたけど、言葉にしなくてもこれで伝わるのだと高を括っていた。だけど彼女が待っていたのは「言葉」そのものだったのだ。しかし今更吐露するなんて、自分の中のちっぽけな何かが許そうとしない。
たった三文字の言葉だと云うのに。





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あ、やばいコレ駄目だ(junk行きになりそう)状況がぼやけた話が書きたかったんだけどなあ。 突然翼視点に変わったのはわたしのミスです。見にくいですよねすみません。 美咲の名前出て来てないけど一応翼美咲前提です。しっかし翼がへたれてるな

2006,April 23




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